1学期終業式 校長訓話

|

~ 私たちが忘れつつある「日本人の心」,「ヒトの心」 ~

 

 皆さんこんにちは。明日から夏休みですね。三者懇や課題、補習等が気になりますか?。夏休中のサボリのツケで暗いスタートの2学期にならなくて済むように、先ずはしんどいこと、やりたくないことから手をつけてゆくように、心がけてみてはどうでしょうか。

 さて、今日は「私たちが忘れつつある‘日本人の心’、「ヒトの心」に関わって、話してみましょう。

 最近、日本では死語になりつつあるいくつかの言葉が外国では見直されて、新しい哲学として普及し始めています。その一つはノーベル平和賞受賞者でケニアの環境副大臣経験者マータイ女史の使う「もったいない」です。

 マータイ女史の来日記念講演では、1時間ほどの演説の中で、『日本には「もったいない」という素晴らしい言葉がある。地球の限られた資源を大切にする上で、この「もったいない」という言葉は立派な表現であり、私はスローガンとして活用してゆく』と言って「もったいない」を連発していました。講演会場は当然、大受けでした。

 桐蔭横浜大学教授で、チベット文化研究所の所長、ペマ・ギャルポさん。私よりも3つばかり年上のインド出身の女性です。次のようなことを言っていました。

 「私は『おかげさまで』という言葉を世界に普及させようと努力しています。私たちは、生きてゆく上で「お金」や「形あるモノ」にはその重要性を痛感しますが、空気や水のありがたさは、それほどには感じていません。しかし、私たちは有形無形を問わず生きとし生けるもの全てに依存しており、頼りにしています。『おかげさまで』という言葉が世界中に理解されれば、人類はもっと謙虚になるでしょうし、自分が生きていることに意味を見いだせるだけでなく、感謝の気持ちさえ生まれてくるのではないでしょうか。『おかげさまで』という言葉を使うことは、21世紀における世界の深刻な諸問題解決の処方箋であり、この言葉は、異なる民族どうしが共存共栄できるためのキーワードであると確信しています。」

 いやはや、・・・参りました。外国の方から『私たちは「日本人の心」を忘れつつあるのでは?』と意見されることになろうとは思ってもみませんでした。しかし、よく考えてみると確かに形骸化しつつある言葉があるようですね。たとえば、日本の食事に関しては二つの挨拶言葉があります。そう、皆さんも良く知っている「いただきます」と「ごちそうさま」。

 「いただきます」というのは「私の命のために動物や植物の命を頂きます」という意味から来ていますし、「ご馳走様」は「馳走になりました」という意味で、「馳」も「走」も、ともに「走る」という意味です。昔は客人を迎えるためにもてなす側は走り回って獲物をとってきました。宿主のそんな働きに対して、客人が「ありがとうございます」と感謝の気持ちを表した言葉から来ています。外国では食事時に宗教的な挨拶が行われますが、「いただきます」と「ごちそうさま」の二つは日本独特の挨拶です。

 自然の恵みへの感謝と、食べ物を用意してくれた人への感謝の気持ち、食事への敬けんな気持ちが表れた言葉であり、日本人の感受性豊かなの心を感じる言葉でが、さて、私たちは形だけの挨拶にしてはいないでしょうか。

 日本の社会全体から「自然への感謝の気持ち」や「敬けんな心」が少しずつ薄らいできているのではないでしょうか。「もったいない」、「おかげさまで」、「いただきます」、「ごちそうさま」など、など。私たちが忘れつつある「日本人の心」、忘れられつつある「日本の文化」を私たちの暮らしの中にしっかりと呼び戻すことができれば、私は「命の大切さ」を「もう一度考え直そうよ」という問いへの回答へ、一歩近づけるような気がしています。

 ところで、大人達はその子供達へヒトの持つ心のぬくもりを、言い伝えや物語を通して伝えてきました。

 例えば、童話です。良く知っているヒトも多いでしょう。宮沢賢治の童話「なめとこ山の熊」。賢治がその中で言いたかったことは、何だったのでしょうか。

 『熊。おれはてめえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも撃たなきゃあならねえ。てめえも熊に生まれたが因果なら、おれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なぞに生まれなよ。』

 小十郎は熊捕り名人でしたが、生き物の命を奪う猟師という仕事は、あまり好きではありませんでした。だから熊を殺した後には、このように熊に話しかけるのでした。

 あるとき、小十郎は撃ち取ろうとした熊に「2年ばかり待ってくれ。残した仕事もある。2年目にはおれはお前の家の前でちゃんと死んでいてやるから」と言われて、その熊を逃がしてやりました。

 それから2年後、熊は約束どおり小十郎の家の前で死んでいました。このようなことがあって間もなく、小十郎は出会った熊を仕留めることができずに、熊の手にかかって死んでしまいました。熊を撃つ猟銃の手が一瞬鈍ってしまったためです。熊たちは小十郎の死を悲しむように、彼を山の平らなところへ運ぶと、ねんごろに祈りを捧げました。

 この童話に書かれているのは、やむを得ず殺すものと殺されるもの達であり、そのものたちの間にある心の交わりです。私たちは自分が生きてゆくためには殺生をせざるを得ません。そうであればこそ、命に対する敬虔な気持ちを大切にしよう。他の命に対して無自覚で横暴になっている自分ではありませんか?あなたは殺すべき相手の熊たちに祈りを捧げてもらえるような生き方をしていますか?「なめとこ山の熊」達はこんな事を読み手に問いかけているのではないでしょうか。言い伝えや物語を、「人としての生き方を教える知恵」として読んでみると、以外に面白いものです。

 さて、待っていた夏休みが始まります。皆さんもよく承知しているように、残念ながら「皆さんの周りには危険がいっぱい」というのが、実情です。現在の学校生活が「日常」であるなら、明日から8月24日までは、皆さんにとっては、気が緩みがちな「非日常」の日々となります。

 この時期ならではの行事への参加を計画している人も多いことでしょうが、安全衛生面での配慮が乏しいがために、結果的に「加害者」になってしまったとか、「被害者」になってしまった、などということのないように、休暇中の登下校はもとより、家庭にあっても、各種行事における異動先での生活であっても、安全衛生については、くれぐれも慎重な配慮や行動を心掛けてください。

 8月25日の始業式には是非とも全員が元気にこの場に集いましょう。

 終わります。

 



アーカイブ

  • rss1.0
  • rss2